「善意」を試す行為は許されるのか?恵比寿での出来事に考える

 最近、SNSや動画共有サイトで話題となっている「善意を試す」系の動画。恵比寿の横断歩道で、目の不自由な方が困っている姿を見かけた投稿者が、心優しく手を差し伸べ、一緒に横断歩道を渡ろうとした。その後、驚きの展開が待っていた。
 「実は見えます。優しい方を捜す動画です」とその人物が告げ、カメラを持ったスタッフが現れた。笑顔でその場を去ったものの、投稿者の心には複雑な感情が湧き上がっていた。

善意を引き出す行為に潜む問題

 こうした「善意を試す」行為は、YouTubeやSNSで頻繁に見かけるようになっている。人々がどれだけ親切かを試し、その反応を動画として記録・公開するというものだ。しかし、この行為にはいくつかの問題点がある。

 まず、善意は試されるものではない。善意とは、他人のために見返りを求めず行う純粋な行動だ。それを「試す」行為は、その本来の意味を歪める恐れがある。また、善意をもって行動した人が、その行為が動画のためであったことを知った場合、裏切られたと感じる可能性が高い。その結果、今後困っている人を助けることにためらいを覚えるかもしれない。

投稿者の心の中の葛藤

 この出来事に対して投稿者は、笑顔でその場を去ったものの、心の中では怒りや失望を感じていた。「困っている人を助けたい」という純粋な思いで行動したにもかかわらず、その善意が試されていたことにショックを受けたのだ。

 この出来事は、善意を試すことで、人々の本当の優しさや思いやりがどう影響を受けるかを示している。純粋な善意が、こうした行為によって傷つけられたことは容易に想像できる。

善意の行動をどう考えるべきか

 「善意を試す」行為が広まることで、将来的には本当に助けが必要な人に手が差し伸べられない事態が生じる懸念がある。「これも撮影の一環かもしれない」と疑うことで、真に助けが必要な状況に対して無関心になる可能性があるのだ。

 善意は他者の評価や動画のために行うものではなく、純粋な気持ちからくるものだ。試されるべきではないというのが、多くの人々が共感する価値観だろう。

善意を試すな

 今回の恵比寿での出来事は、「善意を試す」ことがいかに人々に混乱や不快感を与えるかを物語っている。善意は試されるものではなく、純粋な行動として尊重されるべきだ。こうした動画を通じて善意を引き出そうとする行為が、今後社会でどのように受け止められるか、改めて考える必要がある。

 私たちが目指すべきは、善意を大切にし、それが本物であることを信じ続ける社会ではないだろうか。

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